見返りを求めない人間になろうとして、たどり着いた場所
最近、自分にこう問いかけていました。
見返りを求めない人間になるには、何が必要なんだろう。
寄付をした日、施設に差し入れを持っていった日、犬に会えた日。振り返ると、いつも少し機嫌がいい。その機嫌のよさに気づくたびに、結局これは自分のためなのではと落ち込みます。だったら、その機嫌のよさごと手放せたら、ようやく本物になれるのではないか。そう思っていました。
たぶん、なれない
人を助けると気分がよくなるのは、意志の弱さではなく、仕組みだと知りました。脳がそう報酬を出すようにできている。オフにできるボタンはどこにもありません。
だとすると、「見返りを一切求めない自分」を目標に置くのは、最初から届かない場所を目指していることになります。届かないから、いつまでも自分を採点し続ける。ここ最近、ずっとそうしていた気がします。
しかも、そこはいい場所ではないかもしれない
さらに考えて、目的地そのものが間違っているのではとも思うようになりました。
見返りを一切受け取らない人は、燃料なしで走っているようなものです。長くは続きません。それに皮肉なことに、「自分は純粋にやっている」と思っている人ほど、見返りを別の形で回収しようとすることがあるようです。「これだけやったのに」という言葉。感謝の強要。本人は、たいてい気づいていません。
“見返りを求めていないつもりの人のほうが、かえって相手に負担を渡してしまう。”そう考えると、目指す場所そのものを変えたほうがいい気がしてきました。
目指すのは、正直な人
見返りを求めない人間になるのではなく、見返りを受け取っていることを認めたまま、相手に請求しない人になる。これなら、届く場所だと思います。
差し入れをして嬉しい。それでいい。その嬉しさの代金を、相手に払わせなければいい。ほしい物リストから選ぶ。断れる形で渡す。感謝を求めない。たぶん、それだけで十分なのだと思います。
それでも、聞いてみたいこと
ここまで書いておいて、正直まだ迷っています。「見返りを認める」ことと、「見返りのために動く」ことの境界線を、自分でもうまく引けていません。
同じように考えたことがある方、あるいは「そんなこと考えたこともなかった」という方。よかったらコメントで教えてください。今回はまとめではなく、途中経過として書いています。
