寄付は偽善なのか。保護犬の支援は自己満足かを、ずっと考えていた
保護犬の支援に関わるようになってから、ずっと引っかかっていることがあります。
これは偽善なのではないか。
自分がやっていることは、本当に犬のためなのだろうか。それとも、「いいことをしている自分」が欲しいだけなのだろうか。
寄付をした日は、少し気分がいいのです。施設に差し入れを持っていって、ありがとうと言われた日も、気分がいい。その気分のよさに気づいてしまうと、途端に自信がなくなります。自分は結局、見返りをもらっているのではないか。
しばらく考えて、いまのところの結論のようなものが出たので、3回に分けて書いておきます。1回目は動機の話です。
そもそも、純粋な利他は存在するのか
まず、定義の話から。
「一切の見返りを求めず、自分の得を1ミリも含まない行為」を利他と呼ぶことにすると、おそらく人類は一度もそれを達成していません。人を助けると、脳は気分をよくするようにできています。この報酬は、意図してオフにできるものではありません。
つまり「自分の得が混ざっているから偽物だ」という基準を採用すると、世界中のすべての善意が失格になります。
使えない基準は、基準として間違っている。私はそう考えることにしました。
(補足しておくと、共感から生まれる援助は自己利益とは別の動機で説明できる、という心理学の研究もあります。純粋な利他の存在が完全に否定されたわけではありません。ただ、日常の判断に使うには繊細すぎる議論です。)
受け取る側から、動機は見えない
もうひとつ、決定的なことがあります。
純粋な気持ちで送られた1万円と、自己満足で送られた1万円は、団体の口座では同じ1万円です。
動機の純度は、結果に一切影響しません。フードの量も、医療費の足しになる額も、変わらない。犬の側から見れば、私の内心はそもそも観測できない情報です。
判定しても、誰も得をしない。そういう領域があるのだと思います。
むしろ、自己犠牲のほうが危ういのかもしれない
考えているうちに、順番がひっくり返ったところがあります。
「自分は純粋にやっている」と信じている人は、見返りを勘定に入れていないつもりで、実は感謝という形で回収しようとすることがある、ということです。
「これだけやったのに」という言葉が出てくる。相手は、感謝する義務を負わされる。支援したはずの相手に、負担を渡してしまう。
逆に、自分が得をしていることを認めている人は、受け取りがすでに済んでいるので、相手に請求しません。
利己を自覚している支援者のほうが、受け取る側にとっては安全なのではないか。自分に都合のいい理屈かもしれませんが、それなりに筋は通っている気がしています。
動機の判定を、やめることにした
そういうわけで、私は「利他か利己か」を判定するのをやめました。
やめた理由は、投げ出したからではありません。答えの出ない問いだからです。定義を厳しくすれば全員が不合格になり、緩めれば全員が合格になる。どちらに転んでも、犬の生活は1ミリも変わりません。
考える時間があるなら、その時間で何かを送ったほうがいい。
ただ、そうなると次の問題が出てきます。動機で判定しないなら、いったい何を見て、自分の行動が正しいかを確かめればいいのか。
私がいちばん恐れていたのは、独りよがりの善意で、かえって相手を困らせることでした。
その話を、次回書きます。
